基本的に”マッチョな”話というのは経営者とか資本家の論理である場合が大半なので、そこのところを理解した上でありがたがる方が良いと思う。
「いつかは自分がそっち側に」と考えているなら、そういった話の一定割合は自分自身の血肉となるだろう。
(いやまぁ実際、それ全然ちゃうやろって話も転がりまくってるが。なお、この見極めばかりは経験数がモノを言うと思うので、ある程度数を当たるしかないと思う。)
一方で、「いつかは自分がそっち側に」と考えていないのなら、そういった話はありがたがる必要は全くない。「なんかまた言ってるわ」で良い。
経営者/事業者の仕事は、圧倒的多数である”そうでない人たち”が”そうでない”という哲学で働く中で適正な利益を出し(出せる事業構造を構築・発展させ続け)、適正な(提供された労働力に応じた)対価を出す、というのがその1つである。
みんながみんなマッチョなら、みんながみんな経営者や事業者をやる。市場原理が働くとそうなる。
逆に言えば、被雇用者は、提供された労働力に応じた対価以上を要求することはできない。
雇用されるということは、(一応)リスクがかなり低い状態だからである。負うリスクと引き換えに、対価の決定権(基準設定権・評価権)を雇用者に渡しているのである。
それ以上の対価を望むなら、何かしらの部分でマッチョになる(つまり、リスクを負う)必要がある。
とどのつまり、「自分自身にとっての幸せ/豊か(なんでも良いですけど)な歩みとはいったいどういったものなのか」といった、哲学や美学に尽きる。
全てはこの最も俯瞰的なところが定まった上で、「じゃあマッチョにならんとあかんね」といったことや「じゃあゆるふわに行くのがええね」といったことが定まる訳だ。
ここをすっとばして「マッチョでない者非仕事人」みたいなことを言いがちだと、受け入れてもらえない(ウザがられる)。
逆側としても、ここをすっとばして本当はゆるふわであるにも関わらず「私プロです」みたいな顔をすると、受け入れてもらえない(ダメの烙印を押される)。
余談、人生においても事業においても、急成長というのは、大半が短命に終わる。
そして、短命は、自らが望む人生/事業を不達に終わらせる。
「時間を味方に付ける」ことこそ、自らが望む人生/事業に最も必要なことである。
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