はじめての皆様へのご挨拶

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2025年12月7日日曜日

感無量

我らJリーグチャンピオン 鹿島アントラーズ!


ジーコ御大にシャーレを掲げてもらえた…感無量…。


普段家では一切飲酒しないのですが、一缶だけいかせていただきました。

7年ぶり(ACL優勝以来)の勝利の美酒、至高。

これだから人生はまだまだまだまだやめられない!

2024年11月8日金曜日

お金、時間、頭、今この瞬間にどれを使うかは自分自身の哲学に拠る


若ければ若いほど、楽しみや自由といったものをお金ではなく時間と頭で手に入れた数と質というのが、直接的に(無形)資産になると感じている。

上掲のXポストとは文脈が異なるが、経営者も投資家も(たぶん被雇用者であっても)、若い頃にお金”ではない”ものを如何にやり繰りしたか、というところで伸び代が全く違うものと感じる。

(10代20代の「お金」だけで逃げ切れるなら、もちろん話は違ってくる。)


私自身は、良くも悪くも統計上の余命が約45年ある者である。

今20歳の方だと、統計上の余命は約60年ある。

統計(平均)が全てではないし、かつ、人生は統計や平均がモノを言ってくれないものだが、それでも、数字上はそのくらい長い時間を生きてしまうものなのだということを頭に入れておく必要がある。

そして、私は、この長い(そしておそらくはあっという間の)時間をどのように戦うか、というところに焦点を当てている。


40年を戦うなら、40年を戦えるだけの何かが必要である。

いやそうでなく、10年で戦い切るというなら、そういう戦い方となる。

明確に自分自身で分かった上でやる分には、どちらも正解となる(正しくは、「自分自身で最後の最後に正解にできる」であるが。)。

(近年稀によく目にするのが、「自分自身がベットしているものの中身」をきちんと理解していない言説である。

その中身を理解していないにも関わらずそれにそうベットしてんの?という言説が多いことには、正直、多少辟易していたりする…。)


もし、40年を戦う想定の場合において、時間と頭を使って身に付ける対象が”お金”であるなら、”お金”というもの(の哲学)に全身全霊打ち込んでみたら良いと思う。

時間軸が長くなればなるほど、ライトな金融リテラシー()論はいつか必ず足元を掬うだろう。

そのときに、あなたにその金融リテラシー()を吹き込んだ”誰か”は、おそらくはもうこの世にはいないのだ。

2024年6月23日日曜日

命の長さは短くかつ長い

高校時代に2年生から卒業までの2年間を担任していただいた恩師が、昨年お亡くなりになっていたことを母校の同窓会報で知った。

病気で一度休養し、復帰していたということは知っていたので、てっきりご快復されたのだとばかり思っていた。

あまりにも若すぎる訃報に心から驚いている。

(休養も復帰も母校の同窓会報で知ったことだが…小中高大を通して各卒業後は”僕は友達が少ない”もので、同窓の情報はほぼ皆無なのである。)


思春期という極めて難しい時期、それも男子ばかりのクラス(男子校だった)を受け持つには、このくらいの厳しさでちょうど良いんだよと親になった今だからこそ思うが、在学中は当然、「もうちょい優しい先生がええなぁ…」などと思っていたものである。

(先生、本当にすみません。)

卒業が近付くとあの鬼のような厳しさが緩み、「あ、こんな冗談も言うんですね」「あ、こんくらいならイジっても良いんですね(良くない)」みたいな―本当に朗らかな一面を見せてくれた。

今ではあんなに怖かった「鬼の怖さ」よりも、そういった朗らかな姿の方が記憶により残っている。


当時、幼稚園に入るか入らないかくらいの娘さんの話をよくしていた。奥様の話も。

ご家族を本当に愛されているのだな、と思春期心に思った記憶が最も強く残っている。

実際にご家族の前でどうだったかはほぼ存じない(文化祭にご家族も来られてたので少し知っている)し、その後ご家族がどういったことを思われる人生を歩んだかも全く存じない。

それでも、父親の記憶がない私に「父親像」というものの1つを見せてくれたこの上なく貴重な存在であったと、今ふと思った。


そんな私にも妻ができ、娘息子に恵まれ、最低限生きていく分のお金はありがたいことに得ることができるようになり―そしてちょうどちょっとした時間もできたこの時に先生の訃報を知る―というのは、(ちょうど様々見つめ直していたのでなおさら感じるということだが)様々きちんと哲学しなさいという思し召しなのかもしれない。

人の一生は、自分が事前に計算しているよりも短く、そして人の最期までの歩みは、自分が想像しているよりも遥かに長い―というのが私の「命の長さ」に対する人生観である。

そばで賑やかに戯れる妻・娘・息子を眺めながら、この幸せを噛み締めながら最期に何を残したいかを改めて思い起こした休日となった。


2024年5月20日月曜日

金融リテラシーとは「自分自身の人生の議決権」の哲学である

経営(事業)においては、意思決定権(=議決権)と価格決定権をどれだけ持っているかというのが極めて(最も)重要なものである―というのが肌感になりすぎてしまっている。

(―という者は少ないのかなぁ?)

しかし、人生の選択権/決定権をどれだけ持っているかという概念は、一般的には重視されない(視点がない?)のかもしれない、とふと思う事象に出会った。


事業においても個々人の人生においても、(自己資金(利益剰余金)を除く)エクイティもデットもともに、その選択権/決定権の一部を他人に渡すということと同義である。

これは、元本返済および利息支払(エクイティの場合は配当の支払等)を行いながら、事業/生活を営むことが可能な程度の利益/所得を得続けることを、将来に亘って義務付けられるということであるためだ。


たしかに、外部(マクロ)環境はデフレ構造からインフレ構造へと転換し、資産や負債を「持つこと」が優位な時期に入っている。

故に、借りるということ自体を否定するものではなく、むしろ一定の借入というのは誰しもに必要不可欠であると考えている。

その一方で、一部の言説で度々見かける「借りられるなら無限に借りるのが大正義」というものについては、私は「それはない」と考える。

”利益/所得を(全く)得られないが、それでも断固やりたいこと”というものができなくなる(できる余地が狭まる)、というのは、少なくとも私にとっては不幸なことである。


大事なので何度も書くが、借りるということ自体は否定しておらず、むしろ一定の借入というのは誰しもに必要不可欠である。

その上で、自分自身の人生の議決権は確保された水準のものなのかどうか、というのを考え、その範囲内にコントロールすることが最も重要であると考えている。

なお、自分自身の人生の議決権(が確保された水準)について考えるには、自分自身の人生においてより良い人生とはどういうことなのかを自問自答することが当然に必要になるだろう。


私が考える「金融リテラシー」とは、巷で流行りの金融商品を知ることではなく(そんなことは枝葉of枝葉の取るに足りないことである。)、こうした哲学をサボらずにやるということ(また、そのために必要な、社会などを知るということ)である。

2024年3月23日土曜日

「社運を賭け」ている時点で”負け確”である

経営/事業、は博打ではない。かつ、経営/事業に100%確実なことは何一つとしてない。

故に、経営/事業において行うことというのはひとえに、成功を得るための試行錯誤(=思考と行動)と、失敗したときに致命傷を負わないための試行錯誤(=余力管理)、この両方のOODA-LOOPの掛け算ということになる。


前回の記事([動く/行動する教の功罪])では、動きすぎることがなぜ経営/事業に悪影響を及ぼすと私が考えているのかについて記した。

今回は、その派生で「社運を賭ける」ことを好む者が如何にして社を潰すのかについて記す。


率直に、私は「社運を賭けて―」などといった言葉を口から出す経営者/事業者というのを全く評価も信用もできない。

経営資源管理(余力管理)というのは、経営者や事業者の最も基本にして最低限の仕事の1つであると考えているためである。

この定義に照らし合わせると、社運を賭けなければならない状況を作り出した時点で、経営資源管理(余力管理)に失敗しているものと考える訳である。

また、そんな経営資源管理が「仕事」である経営者や事業者が、それすらできないにも関わらず、”一発”当てる確率など限りなく低いとも考えている。

失敗したときに致命傷を負わないための試行錯誤は比較的”計算可能な(コントロール可能な)”範囲が大きいものである一方、成功を得るための試行錯誤(=思考と行動)は”完全には計算不可能な(コントロール不可能な)”ものであるためである。

「成功はアート、失敗はサイエンス」という言葉があるが、これは私の経験知含む歴史の教訓としてそう言えるものであると確信している。


私は、「社運を賭けて―」という言葉を経営者が発した時点でその社は既に”負け確”であると考えている。

もちろん、そういった賭けを1万回試行すれば、少なくとも1回は勝つだろう。しかし、それは「経営」「事業」とは到底言えないものである。

重ね重ねとなるが、経営者・事業者(および運用者)にとって、余力管理は最も基本にして最低限の仕事の1つなのである。

リーダーシップや人心掌握、イノベーションを起こすには、などといったキラキラしたものが持て囃され、そういったことを追いたくなる時代であることは理解するが、経営者・事業者の仕事を履き違えてはならない。

2024年2月23日金曜日

「動く/行動する」教の功罪

「決める(決断する)」ということは、「やることを決める」ことではなく、「やらないことを決める」ことである―ということを久々に思い起こす場面に出くわしたので改めてここに備忘しておく。


少なくとも私が学生時代の頃(15年ほど前)からずっと、「動く(行動する)」ことは絶対の正義であるという風潮が確実にある。


たしかに、動く/行動するということ自体は、ここで改めて言うまでもなく(そして、経営者/事業者であればほぼ全員が認識している通り)極めて重要なことである。

動く/行動することなしに自社や自身の課題が解決されることはほぼない。

また、自社や自身の理想や最低目安などを達することもほぼない。

これは、動く/行動することによって、自社や自身の課題がドンピシャで解決される/理想や最低目安をドンピシャで達成できる機会(要素)を探り当てているからだと理解している。


その上で、動く/行動することはできているにも関わらず、自社や自身の課題がドンピシャで解決される/理想や最低目安をドンピシャで達成できる「絶好の機会」が訪れた際に、その機会を掴むことができないパターンを往々にして見る。

このパターンにおいて、行動量の不足のために掴むことができないというものはそれほど多くないように思う。

(前述の通り、経営者/事業者はほぼ全員が行動(量)の重要性を認識しており、そもそも何かしらの形で常に行動しているものである。)

ではどういったパターンが多いかというと、絶好の機会を「掴む」ための経営資源(ヒト、カネ、モノ、ジョウホウect...)が足りないというものである。


端的に言うと、これは「動きすぎ」である。

経営者/事業者というのは、ただ動けば良いというものではない。

思考なしにただ動くだけでは、貴重な(有限である)経営資源を無限にすり減らすだけで終わる。

(なお、往々にして経営者当人/運用者当人はそのことに気付かない。)

絶好の機会を「掴む」ための余力を残しながら「動く」ということが肝要なのである。


経営/事業というものは、”キラキラしたものに流される””流行りを追うことしかできない”という者が継続的に結果を出し続けられるようなものではない。

大事なので何度も書くが、経営資源は有限である。

「全て」の施策を同時並行で高レベルに行うことができるとするならば、それはAmazonやAlphabet(Googleの親会社)などの、資本が実質的に無限にある、極限られた企業のみである。

自社や自身がその水準にないのであるならば、貴重な有限の経営資源をどこに配分するか、即ち、どこには配分”しない”のか、ということを決めることが「経営者/事業者の(にしかできない)お仕事」となるのである。

2023年11月11日土曜日

「(年収を上げるために)成長や自己投資すべき」論は果たして万人に当てはまるのか?

基本的に”マッチョな”話というのは経営者とか資本家の論理である場合が大半なので、そこのところを理解した上でありがたがる方が良いと思う。

「いつかは自分がそっち側に」と考えているなら、そういった話の一定割合は自分自身の血肉となるだろう。

(いやまぁ実際、それ全然ちゃうやろって話も転がりまくってるが。なお、この見極めばかりは経験数がモノを言うと思うので、ある程度数を当たるしかないと思う。)

一方で、「いつかは自分がそっち側に」と考えていないのなら、そういった話はありがたがる必要は全くない。「なんかまた言ってるわ」で良い。


経営者/事業者の仕事は、圧倒的多数である”そうでない人たち”が”そうでない”という哲学で働く中で適正な利益を出し(出せる事業構造を構築・発展させ続け)、適正な(提供された労働力に応じた)対価を出す、というのがその1つである。

みんながみんなマッチョなら、みんながみんな経営者や事業者をやる。市場原理が働くとそうなる。

逆に言えば、被雇用者は、提供された労働力に応じた対価以上を要求することはできない。

雇用されるということは、(一応)リスクがかなり低い状態だからである。負うリスクと引き換えに、対価の決定権(基準設定権・評価権)を雇用者に渡しているのである。

それ以上の対価を望むなら、何かしらの部分でマッチョになる(つまり、リスクを負う)必要がある。


とどのつまり、「自分自身にとっての幸せ/豊か(なんでも良いですけど)な歩みとはいったいどういったものなのか」といった、哲学や美学に尽きる。

全てはこの最も俯瞰的なところが定まった上で、「じゃあマッチョにならんとあかんね」といったことや「じゃあゆるふわに行くのがええね」といったことが定まる訳だ。

ここをすっとばして「マッチョでない者非仕事人」みたいなことを言いがちだと、受け入れてもらえない(ウザがられる)。

逆側としても、ここをすっとばして本当はゆるふわであるにも関わらず「私プロです」みたいな顔をすると、受け入れてもらえない(ダメの烙印を押される)。


余談、人生においても事業においても、急成長というのは、大半が短命に終わる。

そして、短命は、自らが望む人生/事業を不達に終わらせる。

「時間を味方に付ける」ことこそ、自らが望む人生/事業に最も必要なことである。

2026年の想定

2026年も既に半分が過ぎてしまった。 もはや「2026年の想定」などと語る時期でもなくなってしまった感があるが、毎年恒例(と自分で勝手に思っている)なので、遅ればせながら書いておこうと思う。 まず、世の中のマクロ経済に対する見方を見ていると、どうも極端な...