経世済民という深淵を覗けば覗くほどに発言等々が日銀文学と化していくのは自然なことなのかもしれないと最近思う。
いちプレイヤーのあたしみたいな者はそれでも許されるが、日銀ともなるとそれすらも叱られる―
政治政策(世論に応える)とは実に難しい物事だなぁ(やや他人事
経済への刺激が必要なんてことは一生永遠に無限にそう(言われ続ける)なのだ。
その上で、国民や企業や社会や…を見ながら金融システム(とどのつまりは通貨価値)をより良い状態に誘導する(なおそんな簡単に誘導できる類のものではない)―
無理ゲーやろ、少なくともあたしがやれと言われたら無理ゲーですわ笑
市場原理を相当歪めてでも人間の(得てして強)欲を満たし続けるということが最適解なのかどうかはあたしには分からない(率直に、懐疑的である。)。
ただ、他国等がそうしている中では価値観等が変化しがたい(少なくとも、体感相当ゆっくり変化していく)ことを鑑みると、ある程度までは致し方ないのかなとも感じる。
1つ言えるのは、市場原理主義というのは「人間(の力)を信じる」立場であるということ。
”見えざる手”だけ知る/教える/取り上げるというのは片手落ちが過ぎるのです。
あれは道徳感情論と1セット(何なら道徳感情論の方が大事)なのよ。
率直に、次期総理在任期間は誰が総理をやっても株価は下方向だと想定している。
故に、次期政権および日銀には、市場のポジショントークなど素無視して、真に経世済民となる政策を進めていただきたいと切に願っている。
超長期的には、それが最も私の事業ポートフォリオの実質資産価値を高めてくれるものと”信じている”からね。