はじめての皆様へのご挨拶

2024年6月23日日曜日

命の長さは短くかつ長い

高校時代に2年生から卒業までの2年間を担任していただいた恩師が、昨年お亡くなりになっていたことを母校の同窓会報で知った。

病気で一度休養し、復帰していたということは知っていたので、てっきりご快復されたのだとばかり思っていた。

あまりにも若すぎる訃報に心から驚いている。

(休養も復帰も母校の同窓会報で知ったことだが…小中高大を通して各卒業後は”僕は友達が少ない”もので、同窓の情報はほぼ皆無なのである。)


思春期という極めて難しい時期、それも男子ばかりのクラス(男子校だった)を受け持つには、このくらいの厳しさでちょうど良いんだよと親になった今だからこそ思うが、在学中は当然、「もうちょい優しい先生がええなぁ…」などと思っていたものである。

(先生、本当にすみません。)

卒業が近付くとあの鬼のような厳しさが緩み、「あ、こんな冗談も言うんですね」「あ、こんくらいならイジっても良いんですね(良くない)」みたいな―本当に朗らかな一面を見せてくれた。

今ではあんなに怖かった「鬼の怖さ」よりも、そういった朗らかな姿の方が記憶により残っている。


当時、幼稚園に入るか入らないかくらいの娘さんの話をよくしていた。奥様の話も。

ご家族を本当に愛されているのだな、と思春期心に思った記憶が最も強く残っている。

実際にご家族の前でどうだったかはほぼ存じない(文化祭にご家族も来られてたので少し知っている)し、その後ご家族がどういったことを思われる人生を歩んだかも全く存じない。

それでも、父親の記憶がない私に「父親像」というものの1つを見せてくれたこの上なく貴重な存在であったと、今ふと思った。


そんな私にも妻ができ、娘息子に恵まれ、最低限生きていく分のお金はありがたいことに得ることができるようになり―そしてちょうどちょっとした時間もできたこの時に先生の訃報を知る―というのは、(ちょうど様々見つめ直していたのでなおさら感じるということだが)様々きちんと哲学しなさいという思し召しなのかもしれない。

人の一生は、自分が事前に計算しているよりも短く、そして人の最期までの歩みは、自分が想像しているよりも遥かに長い―というのが私の「命の長さ」に対する人生観である。

そばで賑やかに戯れる妻・娘・息子を眺めながら、この幸せを噛み締めながら最期に何を残したいかを改めて思い起こした休日となった。


2024年6月15日土曜日

イケイケドンドンと積極的なリスクテイクは異なるもの

ヤバいものってただヤバいだけなんだけど、積極的なリスクテイク(を止めるな)という魔法の言葉で正義化されがち。


ヤバいものをちゃんと止める組織を作るかどうかは置いといて、何かしらそういった仕組みと人材は必要不可欠であると私も思う。

”若い”中小企業の場合はなおさらで、代表者自身がヤバいものを進めてしまう場合というのが往々にして割とあるように見受けている。

なお、それは決して悪意でやってるものでなく、ナチュラルに良かれと信じてやってる場合が大半だと思う。ある意味でたちが悪いのかもしれない?

(”若い”中小企業だと、代表者に堂々とモノを言える人間は極わずかだしね…。)


故に、代表者自身が代表者自身を律する概念を持ち(自分自身の感覚は完璧でないということを自覚し)、それを物理的仕組み化するということは大変肝要だと思う次第である。

(なお、それができるところにはこんな話は釈迦に説法であるという矛盾…)

2024年5月29日水曜日

経営/事業は引き算で永遠にぐるぐると回り続けるもの

以下の投稿に前後に連なる一連の投稿(スレッド)は、どれもが規模の大小に関わらず経営/事業において極めて重要な指摘となっていると考える。

その中でも特にこの投稿はそうだなと思ったので、備忘がてら引用させていただいた。


(経営)決断とは断つものを決めること(経営資源配分の最適化)、つまり引き算なのだが、まぁ(こと我が国では)なかなかできないものである。

(ひな型化できた事業構造の賞味期限はだいたい最長で20年である。故に、外部環境に合わせてグーパーチョキ(理論)していく必要があるのだが…。)


また、こちらも特に極めて重要な指摘であると思う。


小規模事業者ではリソース(私は兵站と呼んでいる)の管理が割と軽視されがちに感じる。

また、多少長く営んでいる中小企業ではビジョンのみに傾倒されがち(ビジョン以外の4つは無意識に軽視されがち)に感じる。

どれか1つが最も大事というものではなく、どれも全て等しく最も大事なのである。

故に、経営者/事業者は、この5つを永遠にぐるぐると回り続けることが役割/職務となると考えている。

2024年5月20日月曜日

金融リテラシーとは「自分自身の人生の議決権」の哲学である

経営(事業)においては、意思決定権(=議決権)と価格決定権をどれだけ持っているかというのが極めて(最も)重要なものである―というのが肌感になりすぎてしまっている。

(―という者は少ないのかなぁ?)

しかし、人生の選択権/決定権をどれだけ持っているかという概念は、一般的には重視されない(視点がない?)のかもしれない、とふと思う事象に出会った。


事業においても個々人の人生においても、(自己資金(利益剰余金)を除く)エクイティもデットもともに、その選択権/決定権の一部を他人に渡すということと同義である。

これは、元本返済および利息支払(エクイティの場合は配当の支払等)を行いながら、事業/生活を営むことが可能な程度の利益/所得を得続けることを、将来に亘って義務付けられるということであるためだ。


たしかに、外部(マクロ)環境はデフレ構造からインフレ構造へと転換し、資産や負債を「持つこと」が優位な時期に入っている。

故に、借りるということ自体を否定するものではなく、むしろ一定の借入というのは誰しもに必要不可欠であると考えている。

その一方で、一部の言説で度々見かける「借りられるなら無限に借りるのが大正義」というものについては、私は「それはない」と考える。

”利益/所得を(全く)得られないが、それでも断固やりたいこと”というものができなくなる(できる余地が狭まる)、というのは、少なくとも私にとっては不幸なことである。


大事なので何度も書くが、借りるということ自体は否定しておらず、むしろ一定の借入というのは誰しもに必要不可欠である。

その上で、自分自身の人生の議決権は確保された水準のものなのかどうか、というのを考え、その範囲内にコントロールすることが最も重要であると考えている。

なお、自分自身の人生の議決権(が確保された水準)について考えるには、自分自身の人生においてより良い人生とはどういうことなのかを自問自答することが当然に必要になるだろう。


私が考える「金融リテラシー」とは、巷で流行りの金融商品を知ることではなく(そんなことは枝葉of枝葉の取るに足りないことである。)、こうした哲学をサボらずにやるということ(また、そのために必要な、社会などを知るということ)である。

2024年5月14日火曜日

元Google+民、未だにGoogle+を惜しむ

ジャック・ドーシー、Blueskyからの離脱は「Twitterと同じ過ちを繰り返しているから」とインタビューで述べる 

「SNS」というものについては、某今は亡き赤いSNS(Google+)が完全なる完成形だと思っている。

ただし、あの形(コンセプト/構造)は当時のGoogle以外では財務が保たないであろう、故に、長く維持できない(故に、誰にもやれない)という致命的な問題があるのだが…。

この世界(の人間が生み出すもの)に完璧なものはないということだねぇ。

人類はまことに惜しいものを失ったと思っている(個人的推しがゴリゴリに入った言説であることは認める。)。

「労働からの解放」ねぇ…?

AGI/ASIが普及した未来を想定したときのディストピアパターン(想定)の1つがこれやね。 「AGI/ASIで労働から解放されてベーシックインカムで暮らす」が成り立つのは、今のところアメリカと中国だけです。日本ではほぼ実現不可能です。… — Koki Ikeda (@...