はじめての皆様へのご挨拶

2024年8月14日水曜日

無敵のかの国が席巻する市場で我が国(企業/事業者/製品)はどう戦えば良いのか

各(販売)国の中での(我が国含む)各国(製品)の位置付けというか感覚が非常によく分かるので、「物を売る」というのはやはり良い。

※弊社、自社で輸出物販を(も)行っております。


ネット上にいる人たちからはあまり好ましいとは思われていない傾向にありそうな(?)かの国は、国内経済が悪いやら、経済が●にそうやら、色々と言われている(実際に一定程度そうなのだろうとも思う。)が、私感としては、何だかんだでとんでもなく強い。

価格競争に持ち込めるものについては、色んな意味で太刀打ちできない。そこは好き嫌い関わらず直視しなければならないと思う。


じゃあ我が国(企業/事業者)はどうすれば良いかというと、相当ポジショニングを工夫すれば戦えるという感覚があるので、そこがポイントになると考えている。

我が国(企業/事業者/製品)は何が好まれており、ひいてはどういった期待がなされているのか、という消費者の潜在的な感情をOODA-Loopする必要がある。

(なお、可能な限り、地場の(中小)企業が売りたいモノと極力バッティングしないという観点も考慮に入れたい。)

これが極めて難しく、そして、極めて楽しいものなのだ。


―ということを、久々に諸々のリストのアップデートのために市場調査しながらあらためて思ったので、備忘用にここに書き記しておく。

なお、数年も経ったら感覚が変わっているかもしれない。あくまで現時点のものである。


2024年7月25日木曜日

2024年下半期~2025年夏あたりまでの超ざっくり想定

個人的なここから半年~1年程度の時間軸での想定は、法定通貨価値(≒物価)はディスインフレからのインフレ再燃、経済情勢は(現状横ばい~やや下方向と捉えているところからの)上方向転換からの下方向転換、としている。

故に、既に取っているリスクは(適宜縮小しながらではあるが)引き続き持ち続ける一方、時間軸を中期で見てのスタグフレーション下での価値変動というのを頭に、時間を掛けて事業のポートフォリオを組み替え(続け)ているところである。


余談、リスクテイクするに際しては、「損の最大値/中央値のマネジメント」というのが最も重要なことの1つであると捉えている。

(もちろん、経営手法などをより深く(より広く)学ぶということもとても重要である。)

(なお、私のこれまでの学びとしては、本来的には何かしらの経営手法を用いるというのは「損の最大値/中央値のマネジメント」も含有するものであると理解している。)

2024年7月3日水曜日

子どもたちには「一見無意味に見える何か」が大事なのだと思う

サマーズ氏: AIでプログラミングは時代遅れになる | グローバルマクロ・リサーチ・インスティテュート 

私自身も、プログラミングは我が娘・息子に勉強させたいとは全く思わない(はなから外している)。

(余談、一部で流行(?)の金融リテラシーに関してはさらにあり得ないという考えである。

理由はこちらの記事 ( 金融リテラシーとは「自分自身の人生の議決権」の哲学である ) の最後に記した、哲学をさせてくれる授業/教室というものが皆無(きちんと教えることができる者自体、極めて限られるだろう。)だからである。)


私は、AI(今の生成AIだけでなく、いわゆるAGIやASIが出現し、汎用的なものとなる)時代において、”人間がすること”というのは、以下のようなことあたりではないかと妄想している。

  • 自分の好みを持ち、それを表現/言語化/実現すること
  • 「なんでや/ほんまかいな/ほんまはどうしたいんや」とあらゆる物事に対して探求すること
  • 実際に体を動かし、実現に向けた行動を起こすこと

そして、こうしたことは、「具体的な(明らかに成績や成果が出る)何か」ではない、「一見無意味に見える何か(経験など)」から培われるのではないかと感じている訳である。

特に「好み」や「自分なりの好奇心(探究心)のスイッチ」などは、より感性が鋭敏な子どもの間に様々なことを感じる方が良いだろうと思っている。


大人になってから学ぶことができるものは、大人になってから学べば良いのである。

子どもたちの感性を尊重し、子どもたち自身がピンときたものをやり(ただし、そのためには、あえて自分からは興味を持たないことにも触れさせるということも必要だと思う。)、自由に自己表現できる環境を整えることこそが重要であるとこの上なく強く思う次第である。


もちろん、我が娘・息子がプログラミングを学びたいと言い出したら、1度好きにすれば良いとは思っている。

これに限っては、真正面から反対意見を伝えるけどね。

少なくとも、「で、何を作りたいんや?」である。


2024年6月23日日曜日

命の長さは短くかつ長い

高校時代に2年生から卒業までの2年間を担任していただいた恩師が、昨年お亡くなりになっていたことを母校の同窓会報で知った。

病気で一度休養し、復帰していたということは知っていたので、てっきりご快復されたのだとばかり思っていた。

あまりにも若すぎる訃報に心から驚いている。

(休養も復帰も母校の同窓会報で知ったことだが…小中高大を通して各卒業後は”僕は友達が少ない”もので、同窓の情報はほぼ皆無なのである。)


思春期という極めて難しい時期、それも男子ばかりのクラス(男子校だった)を受け持つには、このくらいの厳しさでちょうど良いんだよと親になった今だからこそ思うが、在学中は当然、「もうちょい優しい先生がええなぁ…」などと思っていたものである。

(先生、本当にすみません。)

卒業が近付くとあの鬼のような厳しさが緩み、「あ、こんな冗談も言うんですね」「あ、こんくらいならイジっても良いんですね(良くない)」みたいな―本当に朗らかな一面を見せてくれた。

今ではあんなに怖かった「鬼の怖さ」よりも、そういった朗らかな姿の方が記憶により残っている。


当時、幼稚園に入るか入らないかくらいの娘さんの話をよくしていた。奥様の話も。

ご家族を本当に愛されているのだな、と思春期心に思った記憶が最も強く残っている。

実際にご家族の前でどうだったかはほぼ存じない(文化祭にご家族も来られてたので少し知っている)し、その後ご家族がどういったことを思われる人生を歩んだかも全く存じない。

それでも、父親の記憶がない私に「父親像」というものの1つを見せてくれたこの上なく貴重な存在であったと、今ふと思った。


そんな私にも妻ができ、娘息子に恵まれ、最低限生きていく分のお金はありがたいことに得ることができるようになり―そしてちょうどちょっとした時間もできたこの時に先生の訃報を知る―というのは、(ちょうど様々見つめ直していたのでなおさら感じるということだが)様々きちんと哲学しなさいという思し召しなのかもしれない。

人の一生は、自分が事前に計算しているよりも短く、そして人の最期までの歩みは、自分が想像しているよりも遥かに長い―というのが私の「命の長さ」に対する人生観である。

そばで賑やかに戯れる妻・娘・息子を眺めながら、この幸せを噛み締めながら最期に何を残したいかを改めて思い起こした休日となった。


2024年6月15日土曜日

イケイケドンドンと積極的なリスクテイクは異なるもの

ヤバいものってただヤバいだけなんだけど、積極的なリスクテイク(を止めるな)という魔法の言葉で正義化されがち。


ヤバいものをちゃんと止める組織を作るかどうかは置いといて、何かしらそういった仕組みと人材は必要不可欠であると私も思う。

”若い”中小企業の場合はなおさらで、代表者自身がヤバいものを進めてしまう場合というのが往々にして割とあるように見受けている。

なお、それは決して悪意でやってるものでなく、ナチュラルに良かれと信じてやってる場合が大半だと思う。ある意味でたちが悪いのかもしれない?

(”若い”中小企業だと、代表者に堂々とモノを言える人間は極わずかだしね…。)


故に、代表者自身が代表者自身を律する概念を持ち(自分自身の感覚は完璧でないということを自覚し)、それを物理的仕組み化するということは大変肝要だと思う次第である。

(なお、それができるところにはこんな話は釈迦に説法であるという矛盾…)

「労働からの解放」ねぇ…?

AGI/ASIが普及した未来を想定したときのディストピアパターン(想定)の1つがこれやね。 「AGI/ASIで労働から解放されてベーシックインカムで暮らす」が成り立つのは、今のところアメリカと中国だけです。日本ではほぼ実現不可能です。… — Koki Ikeda (@...